緊急性の高いヒヤリハットは迅速に情報共有
《検討事例》
Mさんは、特別養護老人ホームの利用者で軽度の左半身麻痺がありますが、杖を使わずに自力で歩行することができます。ある時、A職員がMさんの歩行介助をしているとMさんが急に膝折れしましたが、たまたま腰に手を回したところだったので支えることができました。Mさんはそれまで膝折れで転倒しそうになったことは無かったので、A職員は翌日ヒヤリハットシートを書いて主任に提出しました。
ところが、A職員がヒヤリハットシートを提出した翌日の朝、B職員がトイレに行くMさんの歩行介助をしていて、前日の同じように突然膝折をして転倒しました。Mさんは膝を強く床に打ち付けて膝を骨折しただけでなく、同時に腕も骨折してしまいました。B職員はMさんの上腕を両手で掴んで歩行介助を行っており、膝折れした時B職員が反射的に腕を強く引っ張ったために上腕まで骨折させてしまったのです。施設長は、介護職員の歩行介助の方法が間違っていたために起きた事故であると説明して、家族に謝罪しました。
《解説》
■なぜ翌日ヒヤリハットシートを提出したのか?
歩行の介助をする時は、原則は患側の後方に立つのが原則ですから、健側の腕をつかんではいけません。歩行自体に支障を来たすことと、転倒しそうになった時腕を強く引っ張り上げれば、腕も骨折させてしまうからです。もちろん、本事例の利用者が1回の転倒で2カ所骨折した主要な原因は、B職員の介助方法が適切でなかったことです。
しかし、この事故にはもう一つの見落としてはならない原因があります。それは、A職員が前日にMさんの介助歩行中に膝折れのヒヤリハットを経験していながら、他の職員にこれを伝えずに、のんびりと翌日にヒヤリハットシートを提出したことです。
A職員がHさんの膝折れのヒヤリハットに気付いていながら、漫然とヒヤリハットシートに書いて翌日に提出したために、防げる事故が防げなかったのです。その上、何も知らないB職員は腕を掴んでいたので2ヶ所も骨折させてしまいました。それまで膝折れしたことのない利用者が歩行介助中に膝折れして転倒しそうになったのであれば、すぐに緊急カンファレンスを招集しMさんが歩行介助中に膝折れがあることを他の職員に知らせるべきだったのです。
このようなヒヤリハットシートを書くだけのヒヤリハット活動は、役に立たないどころか明らかに弊害になっています。ヒヤリハットなどなかった時代には、介助中に危険なことが起きれば緊急カンファレンスを招集していたはずです。
■介助中のヒヤリハットは対応の優先順位が高い
ヒヤリハットを活用して事故を防ごうとしたら、ヒヤリハットに優先順位を付けることから始めることです。介助中の事故は介護のプロとして防止義務が最も高い事故ですから、介助中のヒヤリハットもその取扱いの優先順位を高くしなければなりません。今すぐにでも膝折れして介助中に事故が起きそうな緊急性がある場合には、すぐに対応しなくてはならないのです。
では優先順位の高いヒヤリハットにはどのように対応したら良いのでしょうか?本事例のように迅速に職員間で情報共有が必要なヒヤリハットであれば、「シートを記入する前に主任に報告する」という決まりにすれば良いのです。これら優先順位の高いヒヤリハットは「ヒヤリハット通報」と呼んで、シートの提出より迅速な情報共有を重視するのです。ボヤボヤしていたら、他の職員が介助中に事故を起こしてしまいます。
ヒヤリハットに緊急サインを付けて区分している施設もあります。具体的にはすぐにヒヤリハットシートを書いて枠外に「緊急対応」と赤字で付記し、ヘルパーステーションのボードに貼ったり、赤い付箋を付けて提出するなどの方法で他のヒヤリハットと区分しているのです。「本日離床時ふらつきあり、車椅子対応にして下さい」と、枠外に赤ペンで書いて床頭台近くの壁に貼っていた職員もいました。
さて、他にも迅速な対応を必要とするヒヤリハットがあります。放置しておくと家族とトラブルになるヒヤリハットです。ヒヤリハットでも「利用者がひどく怖い思いをした」という場合は、管理者からの謝罪が必要になる場合もあります。次のようなヒヤリハットのケースでは、「迅速に現場管理者に口頭で直接報告する」というルールにしておくと良いでしょう。
①利用者がひどく怖い思いをしたヒヤリハット
②一歩間違えば大事故になるようなヒヤリハッ
③低レベルのミスで職員の信頼がゼロになるようなヒヤリハット
④ルール違反など職員のモラルが問われるようなヒヤリハット
⑤虐待の疑いなど家族の誤解を招くようなヒヤリハット
■ヒヤリハットは職員間の情報共有が目的
本事例のように、最近ヒヤリハット活動の弊害が目立ってきました。まず、ヒヤリハットシートの提出枚数を競わせて、シートの枚数=事故防止活動の意識の高さのように職場や職員を評価している施設です。「事故防止」というマイナスをゼロにする業務のマネジメント手法としては、やる気を削ぐだけの最低のマネジメントです。ヒヤリハットシートの提出のみが目的になっている「ヒヤリハットシート書くだけ活動」が定着してしまった施設が多過ぎないでしょうか?
ある特養の主任は、ヒヤリハットシートが提出されても、一向に事故を防げないことに苛立っていました。施設長からは「ヒヤリハットシートをたくさん書かせるように」と言われ、リスクマネジメント委員会ではヒヤリハットシートの枚数で事故防止活動を評価され比較されます。その一方で、提出したヒヤリハットに対して何のフィードバックも無いまま施設長のバインダーに綴じられていますし、委員会だって防止対策の助言をくれる訳でもありません。
もっと大きな問題は、せっかく書いたヒヤリハット情報が、職場内で情報共有がされていないことです。ヒヤリハット情報をシートに書いて提出すればそれで終わりですから、他の職員のヒヤリハット情報を誰も知らないのです。これでも事故が防げる訳がありません。
そこで、H主任はヘルパーステーションにヒヤリハットファイルを備え付けることにしました。職員が書いたヒヤリハットシートをバインダーに綴って、絶えず他の職員がチェックできるようにしたのです。重要なヒヤリハットについては赤い付箋を貼り、緊急性の高いヒヤリハットはその予防策を付記してボードに貼り出す。このようにして、介護職員が職場でヒヤリハット情報の共有ができるようにしたのです。
H主任が重要なヒヤリハットだと判断すると、そのページを開いて赤い大きな付箋を貼っておきます。職員は自然にこれを読むようになり、職員同士の会話の中にも「〇〇さん、何とかしないと転倒して骨折するよね。どうしようか?」など、ヒヤリハット情報から防止対策の話に発展するようになりました。ちょっとした工夫でヒヤリハット情報の共有は可能になるのです。