どこの誰か分からない人が施設内を歩いているのが普通か
《検討事例》
ある高級な介護付き有料老人ホームで不審者の侵入事件が発生しました。裏口から入り込んだらしいホームレスが、利用者の家族に発見され警察に通報される騒ぎが起きたのです。この事件を重く見たのは、10年前の開設時からの入居者Mさんの娘でした。Mさんの娘は、大きな病院の精神科の医師として勤務していますが、かなり心配性な方でMさんの転倒や体調変化などでも、すぐに施設に強く対応を求める方なのです。
Mさんの娘は施設長に面会を求め次のように話しました。「神奈川の障害者では19人も犠牲になっている。ホームレスが簡単に侵入できる体制では心配だ、改善を要求する」というのです。施設長は「例のホームレスは職員通用口から侵入したらしくこれは盲点でしたが、当施設は監視カメラ20台を常駐の警備会社の社員が監視していますから、こんなことは2度と起こりませんのでご安心ください」と、真剣に対応してくれません。
翌週Mさんの娘は他の家族二人を伴って、施設長に会いに来て、次のように話しました。「数年前にも不審者が侵入している。その時は精神疾患のある人だったらしい。未だに名札を付けない人が施設内を普通に歩いている。神奈川の障害者施設と同じ事件がここで起こらないと、どうして言えるのか?」と迫りました。ところが、施設長は「例の事件は障害者に対する危険思想による特殊な犯行ですから、老人ホームが狙われることはありません。金も置いていないので強盗も入らないでしょうから、ご安心ください。」と相変わらず重要性の認識がありません。
Mさんの娘さんたちは「私たちがこの施設にどれくらいお金を払っていると思っているの。他と同じでは困るのよ。自力で動けず避難もできないというハンディがあるのよ。本当に入居者を全員守れるの?」と迫ります。施設長は仕方なく“さすまた”を買い、警備会社のインストラクターを呼んで、不審者侵入時に職員が暴漢を撃退する訓練をすることになりました。
■高級であれば防犯体制もレベルが高いはず
かなり高級な介護付き有料老人ホームにホームレスが簡単に侵入してしまったことは、入居者の家族にとってみれば驚くべき重大事件です。豪華で高級な老人ホームであれば、普通の老人ホームの何倍も高度で完璧な警備体制が当たり前だと思っているからです。億ションと呼ばれる超高級マンションでも、過剰なほど完璧なセキュリティを当然に考えています。完璧な防犯体制(システム)は富裕層にとっては大きなステイタスでもあるからです。
ところが、簡単にホームレスに侵入されてしまったことで、高級老人ホームに見合った警備体制でなかったことが露呈してしまいました。しかも、職員通用口から侵入したことは、施設職員の人為的なミスですから施設の警備に対する信頼は台無しで、「盲点」などと言い訳をしている場合ではありません。他の施設でも認知症の利用者が職員通用口から認知症利用者が出て行く事件が、複数報告されています。職員は出入りの度にセンサーをオフにするのが面倒なので、常時オフにしており、ドアが開きっ放しの施設さえあるのです。
このような施設管理者の防犯意識の低さは珍しいことでなく、どうやら面会者の絶えない入院病棟と同じような環境と考えていることが原因のようです。介護福祉施設の防犯体制の脆弱さの原因は、このような管理者の防犯体制に対する意識が希薄であることです。
■障害者施設のように襲われる可能性はどの施設も同じ
施設長が言うように、「例の事件は障害者に対する危険思想による特殊な犯行」で、高齢者施設は標的になる可能性はゼロでしょうか?法務省の「無差別殺傷事犯に関する研究(※)」という報告では、平成12年3月から10年間に裁判が確定し犯人が収監された52件の無差別殺傷事犯について、細かく分析しており、次のような犯行の特徴が報告されています。
犯行動機は「自己の境遇への不満」と「自殺・死刑願望」が多く、犯行の標的では「子供、女性、高齢者など弱者を選ぶ」傾向があり、犯行場所の選定では「人が多く標的を見つけやすく、犯行が容易であり、居住場所に近接している場所」を選ぶ。
明確な動機もなく全く面識のない相手の生命を奪う無差別殺傷事件は、年間5件の割合で発生しており、池田小学校事件は上記の特徴とすべて一致しています。神奈川の障害者施設殺傷事件は特殊な思想によるものでその意味では例外的かもしれませんが、他の無差別殺傷事件の特徴を見る限り、高齢者施設が標的にされる可能性は高いと考えられるのです。
近年『格差拡大社会』と言われ、貧富の差のみでなく人が様々な社会的側面で上下区分され、「自分が不遇なのは社会のせいだ」と考える人が増えました。このような人の中には「生きていても仕方ないから誰かを道連れに死のうと思った」という、自棄的犯罪を起こす人が増えていることも事実です。自棄型犯罪の特徴は、逮捕も極刑も厭わず犯罪の遂行だけが目的であり、標的は誰でも良いという無差別テロ的であり、予防することが極めて難しいのです。
このような犯罪意図を持った人間は、高齢者施設をターゲットにしないでしょうか?「社会の役に立たないのに税金を費やしている」「親に十分な介護ができなかった、こんな豪華な介護施設でのうのう暮らしている奴は許せない」と身勝手な動機で襲撃しないとは限りません。もしかすると、神奈川の病院の高齢者の点滴に毒物が混入された事件も、類似の事件かも知れません。障害者施設よりむしろ高齢者施設の方が危険かもしれないのです。
※2013年3月、法務省法務総合研究所により作成された「研究部報告50無差別殺傷事犯に関する研究」
■入館者管理は今や施設の防犯の常識
「出入者管理」は施設の防犯体制の初歩中の初歩です。Mさんの娘に指摘された「未だに名札を付けない人が施設内を普通に歩いている」と言う事実は、古い施設の管理者の防犯意識の低さの査証なのです。誰だか素性の分からない人が、“普通に”施設内をウロウロしているのでは、不審者が侵入しても気付きようがありません。また、病院の入院病棟のように職員の意識が麻痺して、どんな人が施設内に入り込んでも、職員は全く不審に思わなくなるのが怖いのです。
池田小学校事件で、犯人は侵入した直後に職員と遭遇していますが、職員は不審にも思わず声をかけず、行先も確認していませんでした。見知らぬ人が学校内にいることが当たり前だったからです。現在小学校では、全ての外来者が胸に名札を付けることが徹底されるようになっています。
前述の研究報告では犯行場所として選ぶのは「人が多く標的を見つけやすく、犯行が容易である」とされています。犯行を意図する者が下見にやってきた時、受付のチェックもなく、施設内を自由に歩き回れ職員は誰も不審に思わない、という状況だったらどう思われるでしょうか?
また、古い高齢者施設や福祉施設の特徴的な建物構造では、エントランス付近のパブリックエリア(不特定多数の人が出入りする場所)と、入所者が生活している居室があるプライベートエリアが全く区分されていません。犯行を意図する者からみれば絶好の標的と考えるでしょう。
■さすまた撃退訓練に意味は無い
7月の障害者施設殺傷事件以来、あちこちの社会福祉施設で「刺又(さすまた)を使って暴漢を取り押さえる訓練」が職員によって行われています。かつて、京都市の池田小学校で無差別殺傷事件が発生した時、文科省は「学校への不審者侵入時の危機管理マニュアル」を作成し小学校に配布しました。しかし、このマニュアルでは職員が暴漢を取り押さえるよう要求されていました。3年後に寝屋川小学校で同様の事件が発生して、対抗しようとした職員が暴漢に命を奪われ、その後すぐに大阪府・京都府の小学校には警備員が配置されたのです。
武器を持った暴漢に対して、素手の職員が立ち向かうような無謀な行為を繰り返してはなりません。小学校と異なり高齢者施設は夜間の業務のために夜勤職員が働いていますし、女性職員の割合も大変多いのが現状です。おまけに金銭目的の強盗ではありませんから、職員に発見されても怯んで逃げることは考えにくく、職員を排除して急いで犯行を遂行しようとするでしょう。
犯行の遂行だけが目的でそのためには人の命を何とも思わない犯人に対して、少ない夜勤職員(女性も多い)が対抗しようとして犠牲になれば、利用者は完全に無防備な状態になりさらに犠牲者が増えるでしょう。
無差別殺傷事犯で、犯人は逮捕されることも死刑になることも厭わず、ただ犯行の遂行だけを目的とします。このような犯人に対して有効な対策は「犯行が不可能だ」と思わせることだけなのです。犯人と遭遇した職員が逃げながらポケットの中の警報ブザーを押した時、「不審者が侵入し警察に自動通報されました」と館内放送で自動音声が流れたら、犯人は「犯行が不可能だ」と考えて逃げないでしょうか?