補償より利用者の安全確保を優先
《検討事例》
ヘルパーが利用者の個人情報を盗まれるという事件が発生しました。ヘルパーは、利用者Iさん(73歳女性)の訪問活動が終了した後、ファミリーレストランで食事するため駐車場に車を停めましたが、車の窓ガラスを割られて後部座席に置いた書類カバンを盗まれてしまったのです。ヘルパーはすぐに110番通報し、事業所にも被害の連絡を入れて来ました。
担当のサービス提供責任者はすぐにケアマネジャーに連絡を入れて、Iさんへの対応について相談しました。ケアマネジャーから「Iさんには管理者から謝罪して欲しい」「市にも個人情報漏洩の報告をした方が良い」とアドバイスを受けました。所長がIさんを訪問し事件の経緯を説明し、ていねいに謝罪するとIさんは理解を示してくれました。また、ケアマネジャーには「こちらも被害者であるし車上荒らしでは不可抗力だ」と説明して、市には報告しませんでした。
ところが、翌日Iさんの近所に住んでいる息子さんが所長を訪ねて来て、事件の説明を求めて来たのでていねいに説明し謝罪しました。すると、息子さんは、「こういう事故に対して補償はどうなっているのか?」と言われたので、所長はその場で保険代理店に電話で確認し「個人情報漏洩の賠償保険に加入しているので安心です」と説明しました。
その後警察からは何の連絡もなく、保険会社からも「僅かな補償しかできない」と連絡がありました。息子さんに伝えると、「事故の被害者に補償が無いのはおかしい」と市に苦情申立をしました。市からは個人情報漏洩事故の報告を求められましたが、所長は「うちも被害者なのだから」と答えました。
《解説》
■盗難事故だから「事業者も被害者である」と弁明しているが
本事例の訪問介護事業所の管理者は「事業者も盗難事故の被害者なので仕方がない」と考えています。個人情報の漏洩防止対策は、紛失のような事業者の過失によって起こる漏洩事故だけを防げば良いと勘違いをしているのです。最近では個人情報データの盗難事故のような事業者に過失の無い事故であっても、防止対策は企業の当然の義務であるのにそのことを理解していません。なぜ、介護事業者はこれほど個人情報の漏洩防止に対して意識が低いのでしょうか?
まず第一に、介護事業者が日頃直面している「個人情報の漏洩問題」は、そのほとんどが少し過敏とも思われる利用者や家族のクレームばかりですから、個人情報漏洩はクレームの問題だと捉えているのです。第二に、社会で報道される個人情報漏洩の企業不祥事は、不正アクセスやウイルスによる100万件単位の大量の顧客データを漏洩事故ですから、不正アクセスにも大量の顧客データにも無縁な介護事業者は、その重要性の認識が低くなってしまうのです。
介護事業者は、個人情報の漏洩防止に対する社会的責任をきちんと自覚しなくてはなりません。個人情報の漏洩防止対策は企業の違法性や不法性を回避するために取り組むのではなく、漏洩した顧客情報が犯罪などに不正利用されることを防ぐために、企業の社会的責任として取り組まなくてはならないのです。
10年ほど前に窃盗団によって全国の特養が730件も被害に遭い現金やパソコンを盗まれましたが、パソコン機器の盗難被害の届けは出ているのにパソコン内の個人情報データの漏洩についての被害届は届けが全く出されませんでした。介護事業者が取り扱う高齢者の個人情報は、特殊詐欺など不正利用につながりやすい情報なのですから、なおさら意識を高く持たなければなりません。
■賠償保険に加入していると安心か?
次にこの管理者はIさんの息子さんに対して、「賠償保険に加入しているので安心です」と説明しています。確かに「個人情報漏洩賠償責任保険」という保険が損害保険会社から発売されており、介護事業者が通常加入している介護事業者総合保険などにも特約で付帯されています。
しかし、Iさんの事故の被害をこの賠償保険で補償されるのでしょうか?保険会社から「僅かな補償しか出ない」と言われたのは、「見舞金程度しか支払えない」という意味です。この保険について説明しておきましょう。
まず、この保険の基本契約は損害賠償保険で、企業が個人情報を漏洩してしまった結果、被害者(自分の個人情報を漏洩された顧客)から賠償請求を受けた時に支払う保険です(※1)。では、被害者が漏洩した企業の賠償請求できるのはどのようなケースでしょう。もちろん、漏洩された被害者の個人情報が不正利用されて、明確な損害が発生すれば損害賠償請求は可能です。しかし、単に漏洩されたと判明しただけで、明確な損害が発生しなければどうでしょう?明確な損害が発生しなくても、プライバシーの侵害を理由に賠償請求は可能ですが、認められる請求額は「数千円から数万円」とされています。
すると、Iさんのケースも漏えいした個人情報の不正利用による損害が発生していない以上、保険金は数千円から数万円程度となります(見舞金も支払われますが1件500円限度)。保険会社が「僅かしか支払えない」と言ったのは、このような理由によるのです。
事故が起きると保険の内容も確認しないで、「保険で補償させていただきます」と口にする管理者がいますが、きちんと確認してから回答しないとかえってトラブルを大きくすることになりかねません。
※1:基本契約以外に「対応費用」として、社告・会見費用、事故原因調査費用、コンサルティング費用、使用人の超過勤務手当、見舞金・見舞品購入費用など、漏洩事故に付随して発生する諸々の費用が支払いの対象になります。
■犯罪被害から利用者を守る対策が必要
さて、前述のように個人情報の盗難事故は、個人情報を不正利用することを目的に行われます。特に、特殊詐欺(オレオレ詐欺)や特定商取引(悪質訪問販売)などへの、名簿利用(個人情報の不正利用)が大きな社会問題になっており、これらの個人情報データは不正アクセスなどによる事故で漏えいしたものです。企業が漏えいした個人情報が見えないところで、犯罪行為に利用されているのですから、企業は万全の漏洩防止対策を講じなければならないのです。
しかし、本事例のIさんの場合は特殊詐欺の名簿利用とは異なる、切迫した大きな危険に直結する可能性があることを真っ先に考えなければなりません。なぜなら、73歳で独居の全盲の女性の個人情報が犯罪者の手に直接渡ったのです。車上荒らしで情報を入手した犯罪者は、この無力な高齢者の家に今夜強盗に入ってIさんを殺傷するかもしれません。
訪問介護事業者は保険による補償などと、のんきなことを言っていられる場合ではありません。万難を排してIさんを犯罪被害から守り切らなければなりません。では、どのようにしたらよいでしょうか?実際に起きたケアマネジャーの個人情報盗難のケースでは、次のような対策を講じました。
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1週間近所のホテルに泊まってもらい、その間にセキュリティを設置。1週間後からは警察に身辺警護を依頼(被害が出ていないので実際には動かない)。セキュリティ会社の勧めで1週間巡回警備を依頼。その後はケアマネジャーから電話入れや訪問などの安否確認を行う。
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ケアマネジャーは「しばらく夜も眠れないほど心配だった」と言いましたが、利用者の家族はこの対応に大変満足していました。このように在宅の利用者の個人情報の漏洩は、最悪利用者の生命の危険につながる惧れがあることを肝に銘じて対応して下さい。
■介護事業者の個人情報保護対策は甘い!
最後の大きな問題は、訪問介護事業所の個人情報保護対策が極めて低レベルであることです。居宅サービスは、施設と異なり利用者の個人情報帳票を外部に持ち出さなくてはなりませんから、盗難や紛失の危険をゼロにすることはできません。ですから、安全対策と共に“盗難や紛失などが起きた時の損害軽減策”を講じておかなければならないのですが、漏えい防止のためのルールさえありません。
まず、ヘルパーが利用者の個人情報帳票類を持ち歩く入れ物が、閉まらないバッグが多いことにビックリします。ショッピングバッグのような入れ物に大切な利用者の個人情報帳票類を入れているのですから、バスの中で手を入れられたらすぐに盗まれてしまいます。
次に、盗難や紛失の危険をゼロにはできませんから、事故に遭った場合の損害を軽減するために、極力持ち出す個人情報をできる限り減らすようにします。例えば、「ファイルごと持ち出さない」「必要な部分だけコピーを取って持ち出す」「帳票のコピーで不要な部分はマスキングして消す」などの対策を取っておきます。外部への持出しも含めて「個人情報帳票類取扱いのルール」を作ることが大切です。個人情報帳票類の持出しに関するルールの一部をご紹介しますので、参考にして下さい。
■外部への持ち出しが必要な個人情報帳票類の取扱いルール
◎訪問介護記録やフェイスシートなどを業務の必要で事務所外に持ち出す時は次のルールを守ること。
・「社員以外持出し不可」の帳票は社員以外持ち出せない。
・必要な帳票だけに限定してファイルごと持ち出さない。
・外部に持ち出す時は、必要な帳票のコピーを取って持ち出すものとし原本を持ち出さないこと。
・必要としない情報についてはコピー後にマスキングするなどして、持ち出す情報を必要最小限とする。
・帳票は「中入れ式」クリアファイルに綴じてから、がばんに収納して持ち出すこと。
・ジッパーなどが付いた閉まる書類かばんなどに入れて携行し、ファイルをむき出しで持たないこと。
・車で携行する場合、車を離れる時には必ず携行すること。携行することが困難な場合は、トランクに収納して鍵をかける。
・電車・バスなど公共の乗り物を使用する場合、網棚などに載せず身体から離さずに持ち歩く。
・自転車やバイクを使用する場合、フタのできる収納器具を装着してその中に収納する。