「自前補償」は必ずトラブルを招く
《検討事例》
Yさん(85歳男性)は1年前に脳梗塞を患い、軽度の左半身マヒで要介護2となり、週2回デイサービスを利用しています。日常生活はほぼ自立で認知症もありませんが、自立心の強く人の手を借りようとしません。ある日、デイサービスのソファから立ち上がろうとして、前方に転倒して両手と両ひざを床に着きました。職員がすぐに気付いて抱き起しナースを呼びましたが、Yさんは「大したことはない」と言いながらも腰を押さえています。
同居の娘さんに連絡を入れ整形外科を受診すると、Yさんは第四腰椎圧迫骨折で治癒見込2ヶ月と診断されました。勤務先から駆けつけて来た娘さんに、医師が「1週間は安静が必要」と話しました。連絡を受けて病院に急行してきた事業所の社長は娘さんに「職員が見守っていながら申し訳ありません。困ることがあったらお手伝いしますから何でも言って下さい」と謝罪しました。すると娘さんが「医者が1週間は安静が必要と言っている。父のトイレ介助ができない」と言うので、社長は「明日からうちのヘルパーがお手伝いをさせてもらう」と、事業所の訪問介護のヘルパーを派遣することを約束しました。
事故後1週間事業所では、毎日6時間のヘルパー派遣を行い、2週間後からはデイサービスを週5回に増やし2日のヘルパー派遣を続けました。また、「週に5日も母が家で独りになり心配だ」という理由で、母親(要介護認定なし)のデイサービス利用を要求され、事業者はこれも受け入れてしまいました。2ヶ月後に骨折は治癒しましたが、Yさんの介助が必要との理由から、サービスの継続を要求されました。
《解説》
■事故後の過失判断を慎重に行う
本事例のトラブルの発端は、事故の過失を軽々に判断して全面賠償を約束してしまったところにあります。ではこの事故でデイサービスに賠償責任が発生するのか検証してみましょう。
まず、この転倒事故の過失について疑問の余地があります。立ち上がりや歩行が自立している利用者に対して援助の義務はありませんし、いきなり椅子から前に転落されれば防ぎようがありません。次に転倒と骨折の因果関係にも疑問があります。ソファから前向きに転落して両手両ひざを床に着いた時、腰椎圧迫骨折が起こるのでしょうか?起こらないと断言はできませんが、可能性は低いと考えられます。なぜなら、通常腰椎圧迫骨折は尻もちなど腰椎が上下に圧迫されて起きることが多いからです。せめて、医師に転倒と骨折の因果関係について意見を聞いておくべきでした。
その上、入所施設と異なりデイサービスでは、居宅で起きた転倒事故が原因という可能性も否定できませんから、厳密な調査を行えばこのYさんの転倒事故に対するデイサービスの損害賠償責任には、大いに疑問の余地があるということです。
「事故原因が明らかに施設の過失」という場合を除き、何の調査もせずに事故直後に過失を認めると、後のトラブルを引き起こすリスクが高くなります。通常、事故直後の段階では「現段階では事故原因や施設の法的責任などが判明しておりませんので、早急に調査し正式なご説明をさせていただきます」と過失の判断は避けなければなりません。
また、誠意のある謝罪も大切ですが、「困ることがあったらお手伝いしますから何でも言って下さい」というのは明らかに行き過ぎです。この軽率な補償約束の言葉が、娘さんの要求をエスカレートさせた大きな要因です。事故の損害に対する補償は、事故の結果生じた損害を確実に補償すれば足りるのですから。
■事故と因果関係の無い損害も補償してしまった
不当な要求をするつもりがない常識をわきまえた被害者でも、「要求したら何でもしてくれる」ということになれば、自然に要求がエスカレートします。この事例で、事故とは関係の無い奥様のデイサービス利用を認めたことは決定的な失敗で、こうなれば要求は際限がなくなります。Yさんの娘さんの要求をエスカレートさせたのは、介護事業者の誤った対応なのです。
多くの介護事故で事業者は誠意ある補償対応をしようとしますが、「誠意がある」ということを「被害者が困っていることを直接援助する」と勘違いをしてトラブルを招くのです。事故と直接因果関係のない被害者や家族の生活全般の困りごと全てを援助してしまえば、事故前よりも手厚い援助が受けられるようになるのですから、当然いつまでも甘えたいと考えます。Yさんの娘さんは事故が起こったことによって、以前よりも介護負担が減り楽ができるようになったのですから、元の生活には戻りたくありません。介護事故の被害者の要求をエスカレートさせているのは、事業者の誤った対応だということを肝に銘じなければなりません。
■市から事故対応の不適切な点を指摘された
さて、ここからは苦情申立によって市から指摘された、事業者の不適切な対応について考えてみましょう。まず「デイの過失で起こした事故は第三者行為に当たり介護保険給付対象外」と指摘されました。もう少し詳しくご説明しましょう。まず「加害者が存在する賠償事故によって生じた被害者の損害の補償では、介護保険給付を受けられない」という原則があることを知っておいて下さい。例えば、交通事故で受けた損害によって被害者が医療保険(健康保険)を使った場合、医療保険側は給付した額(自己負担以外)を加害者か自動車保険会社に求償するのです。この規定は公的保険制度によって、加害者が賠償金の支払いを免れるという不公正を是正するためのものです。
同じように、本来加害者が負担すべき賠償損害を介護サービスで補償した場合、介護保険制度から9割給付され、加害者は9割分賠償を免れてしまうのです。このような不公正を是正するためには、加害者が介護保険給付を使わず全額金銭で支払うべきだという原則があるのです。ですから、この事故では加害者が損害賠償として介護サービス費用を全額負担しなければならなかったのです。
次に、「利用者の自己負担分の免除は条例(東京都)に違反する」と指摘されました。自己負担分も最終的には加害者である事業所が負担するのですから、もらわなくても同じだと考えたのでしょう。しかし、介護保険給付によるサービスを提供しながら、自己負担分を免除する行為は条例に違反するのです(別表)。このように、介護保険制度の指定事業者は様々な面で、法的な制約を受けていますので、事故後の補償についてもきちんと法に則って対応することが求められるのです。
別表《東京都の条例》
「東京都指定居宅サービス等の事業の人員、設備及び運営に関する条例」の「施行要領(24福保高介第1882号)第1-2-①-イには、「利用者が負担すべき額の支払いを適性に受けなかった時」は「指定の取消しや一部効力停止があり得る」とあります。つまり、介護保険制度の利用者の公平性の確保の問題から、一部の利用者の自己負担額を事業者自ら免除することを禁止しています。
■保険会社からも保険金の支払いの問題点を指摘された
最後に、事故の補償として事業所が負担した介護サービスの費用が、保険会社から全額支払えないと言われました。介護保険制度からは全額事業所負担にするように求められ、保険会社から保険金で全額支払われないと言われ、事業所は大きな損害になってしまいました。
では、なぜ保険会社は損害の補償にかかった費用を全額支払ってくれないのでしょうか?1つ目の理由は、事故と直接因果関係のない損害に対しても事業者が負担してしまっていることが挙げられます。2つ目の理由は、自らの過失で起こした事故でサービス提供が増えて、不当に利益を得てしまうからです。
Yさんの事故では、毎日6時間の訪問介護サービスやデイサービスの利用増加など、事故によって介護サービスが新たに発生しました。この新たに発生したサービス費用を事業所が全額保険会社に請求すると、事業者は自らの過失で起こした事故によって利益を得ることになります。保険会社は保険契約者が保険金の請求により、不当な利得を得ることを禁じられていますから全額支払うことはできないのです。
以前も指摘しましたが、介護事業者は自らの過失で事故を起こし利用者に介護サービスが新たに発生すると、いとも簡単に自社でサービスを提供してしまいます。しかし、この不当利得禁止を前提にすれば、事故によって新たに生じたサービスは他事業者にサービス提供を依頼し、その費用を事故を起こした事業者が負担すべきなのです。当然、このYさんの事故で保険会社は、事業所の利益に該当する部分は除いた金額を保険金として支払うことになります。