介護施設従事者としての標準的な配慮は必要
《検討事例》
Sさん(男性・81歳)は東京都のサービス付き高齢者向け住宅に居住し、訪問介護サービスを受けています。5年前に脳梗塞を患い軽い半身麻痺があるものの、比較的自立度が高くお元気な入居者です。ある日の朝、生活相談員が食堂に来るとSさんがソファに座ってテレビを見ています。生活相談員は、朝食が用意できたので相談員がSさんに声をかけましたが返事がありません。相談員が様子を見に行くと、何か言おうとしていますが言葉が聞き取れません。相談員は寝ぼけていると思い、他の入居者の朝食の対応をしました。他の入居者が朝食を終えようとしても、まだSさんはソファに座ってテレビを見ています。相談員が再びSさんを見に行くと今度はおかしな表情をして何か訴えているようですが、相談員は居室に戻る利用者への対応に追われ、Sさんに対応しませんでした。
しばらくして訪問介護のヘルパーが施設に訪問介護サービスに来て、Sさんを見て「なんだか様子がおかしいよ、かかりつけ医に連絡したら」と言いました。相談員が医師に電話を入れると、医師から「すぐに救急車を呼んで下さい」と指示され、Sさんは救急搬送されました。救急搬送先の病院でSさんは脳梗塞の発作と診断され入院しましたが、半月後に亡くなりました。息子さんは、「ヘルパーでさえ様子が変だと気付いたのに、相談員が気づかずに対応が遅れた。契約書には緊急時対応サービスと書いてあるのに対応しなかった」として、サ高住事業者の損害賠償責任を主張し裁判に訴えると言っています。
《解説》
■高齢者の発音や表情に異変があれば脳血管障害を疑うべき
本事例のトラブルの原因は、Sさんが脳梗塞の発作を起こした時に、相談員が適切な対応をしなかったことです。脳梗塞などの脳血管障害の発作への対応では、迅速な医療機関への搬送が重要ですから、Sさんが脳梗塞で亡くなったのは相談員が迅速な救急搬送を怠ったためと言われても仕方ありません。
具体的には次の対応が不適切とみなされるでしょう。
①「声をかけても返事をしない」「何か言おうとしているが聞き取れない」というSさんに対して寝ぼけていると思い他の入居者の朝食の対応をした。
②他の入居者の食事が終わっても席に付かないSさんを見に行くと今度はおかしな表情をして何か訴えているようですが、相談員は忙しく対応しませんでした。
高齢者であれば脳血管障害の発作を起こしやすくなりますし、Sさんは5年前に脳梗塞を患っていますから、「言葉がうまく話せない」「表情がおかしい」などの状況は脳血管障害の発作を疑うべきでしょう。これらの状況はまさに緊急時対応の場面ですから、家族が「契約書には緊急時対応サービスと書いてあるのに対応してくれなかった」ので事業者に賠償責任があると主張するのは当然です。しかし、訴訟を起こして事業者の賠償責任を主張するためには、生活相談員の対応が契約内容に反しているか、法律に違反していると立証しなければなりません。生活相談員の対応は契約違反による債務不履行や法令違反に当たるのでしょうか?
■生活相談員の対応は過失として賠償責任を問われる可能性がある
ご存知のように、サービス付き高齢者向け住宅で提供される生活支援サービス(介護保険外サービス)は、「高齢者の居住の安定確保に関する法律(高齢者住まい法)」に基づく都道府県の「高齢者居住安定確保計画」で定めるとされています。そしてサービス内容は、基本サービス(必須サービス)と希望に応じて提供される選択サービスに分かれます。高齢者住まい法では、基本サービスを生活相談と状況把握(安否確認)と定めていますが、東京都の高齢者の居住安定確保プラン(高齢者居住安定確保計画)では、緊急時対応サービスを基本サービスに含めています。
ですから、本事例のSさんの脳梗塞の発生に対する生活相談員の対応は、東京都が定める緊急時対応サービスの内容を満たさなければなりません。東京都の緊急時対応サービスの内容は「高齢者向け住宅における生活支援サービス提供のあり方指針」によって、次のように定められています。
ア事故、急病、負傷等入居者の緊急事態に迅速かつ適切に対応できる体制を整備すること。
イあらかじめ入居者、入居者の家族、成年後見人等、かかりつけ医等と対応方針を定め、緊急事態が発生した場合は速やかに適切な措置を講じるよう努めること。
ウ(省略)
では、入居者に緊急事態が起きた時、「迅速かつ適切に対応できる体制の整備」「緊急事態が発生した場合は速やかに適切な措置を講じる」とは具体的にはどうすべきなのでしょうか?次の2点が必要と考えられます。
①入居者に緊急事態が起きた時、入居者の状況を的確に判断し適切な対応をすること
②緊急事態発生時の対応方法を決め、全ての職員が適切に対応できるようにしておくこと
本事例では、相談員の目の前で入居者に緊急事態が発生していますから、居室で発生した場合と異なり、緊急事態に気付くことが可能な状態にあった訳です。では、この状況を見て相談員は目の前の利用者が緊急事態に陥っていることに気付かなければならないのでしょうか?
脳梗塞の既往症のある高齢者と同居している家族であれば、脳梗塞の発作が起きた時の症状を知っているのが普通です。ちなみに脳梗塞の発作が起きた時の特徴的な症状は「ろれつが回らない」「唇や顔の片側が動かなくなる」「片方の手や足が上がらない」などです。サ高住の相談員は高齢者介護に関わるプロですから、入居者の家族の知識より劣るようでは困ります。では、生活相談員はどのような能力が必要とされるのでしょうか?
生活相談員に必要とされる資格は「社会福祉士・精神保健福祉士・社会福祉主事任用資格もしくは介護支援専門員・介護福祉士の資格または介護施設での介護の実務経験が1年以上(東京都)」とされています。上記の「資格者」であれば、脳梗塞発作の発生に気付くことが可能だと考えられますが、介護施設での介護実務経験が1年以上だけでは緊急時に適切に対応ができる保証はありません。当然、事業者は緊急時対応をマニュアル化し、教育訓練を実施し相談員が緊急時に「迅速かつ適切に対応できる体制の整備」をしなければなりません。本事例が訴訟になれば、相談員がSさんの脳梗塞の発作に気付かなかったことが過失とされるかもしれません。
■安否確認サービスでも緊急対応の必要な場面がある
さて、緊急時対応サービスの具体的な内容を事業者も管理者も把握しておらず、マニュアル化もされていなければ、相談員個人の能力に頼らざると得ません。当然、教育や訓練を受けていない相談員は、緊急時に適切な対応ができるはずがありません。
しかし、緊急時の対応が適切にでない事業者はこの事業者だけなのでしょうか?他の事業者は緊急時対応をマニュアル化したり教育訓練を実施するなど「迅速かつ適切に対応できる体制の整備」をしているのでしょうか?実はサ高住におけるサービス提供でトラブルが絶えないのは、制度が要求するサービス内容に対して、実際の事業者の体制が追い付いていないことにあります。当然制度が要求するサービス内容は、家族が要求する最低限のサービスレベルでもありますから、事業者のサービス提供体制・能力が低ければトラブルが起こるのです。
そもそも、制度が求めるサービス内容と制度が規定する要因体制(要員や職員の資格要件)が、全くかけ離れているのですから、要員体制を満たしてもサービスレベルは確保されないのです。例えば、生活相談員は日中に常勤1名確保すれば良いですし、前述の通り相談員は介護施設での介護経験1年以上でも可能です。
安否確認サービスは決められた業務を行えばできますし、相談サービスも入居者の求めに応じるだけですから難しくありません。しかし、入居者の動作や言葉から体調を判断して対応する緊急対応サービスは、対応する職員の能力の個人差が大きく現れますから、これらを全ての人材に教育することもかなり難しいのではないでしょうか?
ところで、どの自治体でも安否確認は基本サービスに含まれています。安否の確認だけは巡回するだけでもできますが、安否確認巡回時に体調の異変が起こっている入居者がいれば、緊急対応サービスと同じことを求められます。まさか、安否を確認さえすれば緊急事態に陥っている入居者に対応しなくても良いという訳ではないでしょうから、これも制度の要求と実際の要因体制は一致していません。